Amadeus Code (アマデウス・コード)

天球のシンフォニー

Prelude~序奏

 

「原初にカオスがあった。次に、永久に揺るがぬ座として胸幅の広い大地と、不死なる神々の中で、最も美しく、万物生成に働きかける力の愛があらわれた」(ヘシオドス・古代ギリシャ叙事詩人『神統紀』より)

 
 最初、それはただの小さな点だった。
 それが次第に輪郭を刻み、やがては円となった。
 円がさらに膨らんで、球形だと判別できる頃には、それはとてつもない大きさへと成長していた。
 巨大な球体は、唸るような低振動を伴って、ぐんぐん迫ってきた。それは何か宿命的なものを背負ってやってきたようで、逃げることもできなければ、抵抗するすべもなかった。
(このままではぶつかってしまう!)
 だが、逃れたい思いとは反対に、身体は球体へと向かって突き進みはじめていた。いや、もしかすると、はじめから近付いていたのは、自分の方だったのかもしれない。見えない意思にコントロールされているかのように、強い力で引き付けられていく。
 球体はついに目の前いっぱいに壁のように広がった。さらに速度を上げ、突進していく。
 衝突の瞬間、あたりにパッと閃光が飛び散った。これといった痛みは感じなかった。もはや衝撃は感覚をはるかに超越していた。その後も球体の中心に向かって、ただひたすら突き進んでいった。
 同時に耳をつんざくおびただしい数の音の群が、激しいバイブレーションとともに襲いかかってきた。それらは身体の隅々にまで、確実に浸透していった。
 一瞬とも永遠とも感じられる時が経過した。
 再び、あたりに閃光が走り、音のバイブレーションがそれを追いかけた。
 
 開け放たれたガラス窓から吹き込んでくる雨粒の冷たさに、男はハッと目を覚ました。
 気が付くと、ベッドの上でびしょ濡れになっていた。
 夢だった。男は夢を見ていたのだった。頭の芯で、まだ夢の中の音が激しく鳴り響いている。
 まるで夢のクライマックスを予期していたかのような絶妙のタイミングで雷鳴はとどろいた。
 こういうことは以前にも経験したことがあった。現実と夢のバランスを巧みに調整する技師がいるかのように、眠りが浅くなるに連れ、夢の中の音が現実の音と少しづつ交錯し、同化していくのだ。だが、夢の中では、それが夢なのか、それとも現実の出来事なのかの区別はつかなかった。
 
 男は呆然としてベッドから起き上がった。
 傍らで眠っていた妻が、怪訝な顔で声をかけたが、男は返事もせずにフラフラと歩いていった。
 昨夜はワインをどれほど空けたのだろう。酔うための酒が、ここのところは現実を忘れるための酒に変わっていた。現実逃避のために、毎夜、男は深酒に溺れていた。
 男の頭の中には、言葉では言い表せない数千、数万、いやそれ以上の音の記憶が残っていた。
「こいつは大変だ。いますぐ何とかしなければ……」
 男はおもむろに机に向かうと、筆をとった。それがいったい何なのか、見当も付かなかったが、思考を越えたとてつもない力が男を導いていた。まるで何かに取り憑かれたかのように、ひとつひとつの記憶のかけらを、正確に音符へと替えていった。ただひたすら衝撃を譜面に記した。迷いも疑いもなく、ただ本能のまま黙々と筆を走らせた。それは、もはや才能あるものの、義務でも権利でもなかった。興奮すると、男は長い前髪をかき上げる癖があった。だれにも見せたことのない、妻にさえ見られるのを嫌っていた、いびつな耳が、時折露わになった。
 忠実に変換された音の記憶は、それから数十日を経て、一作の交響曲へとかたちを変えた。自らの記憶のすべてを、男はここに凝縮させた。
 しかし、過去の栄光にすがりついて生きるみじめな男の作品に耳を傾けるものは、だれひとりとしていなかった。以後、男は二度と交響曲の作曲に手を染めることはなかった。
 
 一七七八年十二月三日。
 それから三年ほどたった凍てついた冬の夜、男は永遠の眠りについた。
「あの夜、いったいあなたに何が起きたの?」
 質素な木棺に収まった男の髪をかき上げながら、妻はつぶやいた。小さく曲がった耳が覗いた。その死に顔は、天寿をまっとうしたかのように穏やかだった。
 
 ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフギャングス・テオーフィルス・モーツァルト……。
 「神に愛されし者」を意味するテオーフィルス、これをギリシャ語読みにした「アマデウス」は、後に男の俗称となり、当時、世間には見向きもされなかった最後の三作の交響曲は、現在では男を代表する「三大交響曲」として知られている。
 しかし、これらの曲が、男の生前に演奏されたという記録は何ひとつ残されていない。